prose-興味津津
2014年6月24日 エッセイ 本能寺の変は諸説の考証があって、なかでも明智光秀の織田信長へたいする個人的「怨恨」説が小説や映画などの媒体でひろく認識されている。他に公家による「陰謀」説、長曽我部の「四国」説が秘かにまことしやかにながれている。いずれも有りそうで無さそう、無そうで有りそうの範疇をでないもので一説に絞る決定的証左がなかったことによる。霧や霞がかかってぼんやりしている歴史特有の幕なのだ。歴史小説家などの創作者はそのほうが都合よく虚実おりまぜての歴史物語がつくれるのである。だから後年新しくて定説だとされる解釈の資料が発見されれば、事実とはことなり単なる時代ものの読み本になる。
今日(6/24)の報道では、明智家の重臣斎藤利三と長曽我部元親のやりとりの書簡が林原美術館で発見されたようだ。
当時長曽我部元親は四国全土を切り取り次第に領土とする許しを信長からえていて龍雲の勢いで四国全土制覇の戦をしていた。ところが信長は前言を翻し土佐と阿波の一画のみを領土する旨を言いわたした。長曽我部元親は信長に当然抵抗したことにより、信長は長曽我部へ対して軍旗をあげ、大将に次男信雄を後見に丹羽長秀を選んだ。
元親と光秀とは斎藤利三を介して因縁あさからぬ関係で結ばれており、長年織田、長曽我部の橋渡しの役を担っていて対四国については第一人者の自負があっろう。その功さしおかれて人事が決まった。
光秀のおかれた立場、光秀という人間の性格から本能寺の変を推し量るとすれば、
朝廷の信任厚いところから「陰謀説」
長曽我部の親交あるところから「四国説」
自尊心たかいところから「怨恨説」
の三説いずれも縺れた糸になって肯定される要因がある。
このたびの書簡は本能寺の変3日前に元親から利三宛てに発信、信長の下知に従う旨の内容とのこと、されば新しい歴史観が開かれるかどうか、興味ある者は専門家の解析を楽しみにしている。
今日(6/24)の報道では、明智家の重臣斎藤利三と長曽我部元親のやりとりの書簡が林原美術館で発見されたようだ。
当時長曽我部元親は四国全土を切り取り次第に領土とする許しを信長からえていて龍雲の勢いで四国全土制覇の戦をしていた。ところが信長は前言を翻し土佐と阿波の一画のみを領土する旨を言いわたした。長曽我部元親は信長に当然抵抗したことにより、信長は長曽我部へ対して軍旗をあげ、大将に次男信雄を後見に丹羽長秀を選んだ。
元親と光秀とは斎藤利三を介して因縁あさからぬ関係で結ばれており、長年織田、長曽我部の橋渡しの役を担っていて対四国については第一人者の自負があっろう。その功さしおかれて人事が決まった。
光秀のおかれた立場、光秀という人間の性格から本能寺の変を推し量るとすれば、
朝廷の信任厚いところから「陰謀説」
長曽我部の親交あるところから「四国説」
自尊心たかいところから「怨恨説」
の三説いずれも縺れた糸になって肯定される要因がある。
このたびの書簡は本能寺の変3日前に元親から利三宛てに発信、信長の下知に従う旨の内容とのこと、されば新しい歴史観が開かれるかどうか、興味ある者は専門家の解析を楽しみにしている。
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