5日に腰痛に悩む友人を吉備中央町の腰痛地蔵にさそい小雨けむる緑陰の小径道に同行した。地蔵が直接手を施し治してくれるわけではないが、地蔵に手のひらをかざして心をかたむけることで希少安穏の兆候えられれば幸いと思ったのである。
 山肌にはりついた農家のほかに、山水を蓄え作付をおえた田が青々と眼下にひろがり、やがて家も田もつきつめ山林との境界地に腰痛地蔵「横山様」のお堂があらわれる。
 どっこい山間の静寂ににわわぬ人出にびっくりした。駐車場に車が横列していて男女多数がみえ、狭い堂内は人頭で万藩である。祭祀でもあったのかと一瞬とまどった。さにあらず、車のプレートは大阪神戸ばかり、香や蝋燭の匂いはすこしも漂わずだれもかれも手に首にカメラをもっていて、バズカー砲を装着している。堂の裏山によしず張りの小屋のすきまには砲先のレンズが砲列、田の空間をうかがっていた。
 彼らの狙いはブッポウソウだ。
 やれやれ、とんだ地蔵詣になってしまった。
  
 防衛体制の論議が連日かしましい、憲法をいらわづ解釈で集団自衛権を乗り切る方策は苦肉の策で奔走の力を感じるし暴走の危うさを抱きあわしている。さりとて平和国家をつらぬいて軟着陸すればそれにこしたことはなく、あえて鎧兜をつけ武威をかざすことはない。ただし、それは良いとこどりでことごとく挙げ足をとって国内統率の手段にすりかえる某国と某国は、彼国の国政中枢の思考からみてかさにかかった誹謗中傷の度をつよめてくることが戦術だろう。
 ならば背後に同盟大国の旗を指して鎧の摺り音を鳴らすしかない、といいたいところだが、今の首領は算盤勘定ばかりでかっての歴代首領の睨みを利かす配慮はさらさらうかがえない。ばかりか、コリアロビィに動じて州政府は慰安婦碑を建てるしまつ。ことほどさように一体になるべく外交のつたなさが、相手国にしらしめるほど発揮できるのだろうか。
 
  

 サーカスの歌といえば二つのメロディがしびれるような放電はなち想いだされる。遠い過去、それこそ忘れ去られ、地下に埋めこまれていた箱が突如パカッと開いて頭をかみにきた怪のようなものだが、なにかもの哀しき旋律でかなでる「美しき天然」は澄みきった空になじみ、古賀政男の「サーカスの歌」は毛穴がもぞもぞ開くほどの懐古をしいられる。空中ブランコ、オートバイの曲乗り、道化者、象の芸に驚愕感嘆、黄ばんだ写真より鮮やかな色彩でよみがえる。
 今、岡山で木下サーカスが開演中、孫二人が親に手をひかれ生まれて初めて見に行ったそうで、最初から最後まで口をあんぐりし驚嘆感動した面持ちだったとか。
 さぞかし、生涯の記憶として玉手箱に収まることだろう。
 蒸し暑くて緑の葉がいっせいに水分を吐きだして空間をつつみこんでいる。
 室温27度湿度70%は椅子にすわっているだけで皮膚の孔から汗がにじみ気持ちがよくない。
 だぶだぶのTシャツをひっぱりだし扇風機をまわしてようやく涼感を識る。
 おちついて読書に耽けれる。
 県道落合ー加茂川線をしばらく走行すると下土井集落にはいり地蔵尊の看板があるところを山手に登りつめると、境内に横ずけ駐車できるのが歩行難儀の身には大変ありがたい。まずは地蔵尊に詣でさい銭合掌手をあわし地蔵に手のひらをかざす、指先がぴりぴりするだろうと言われたがなんの反応もない、生来無信心の脳髄には霊験、感応は無縁なのだろう。ほろよい山風と開放気分が手のひらを撫て通りすぎていった。
 篤実な地元の人たちのボランィア活動が行き届いて駐車場を兼ねた境内の東縁に於福さんの隠匿説明板、レリーフを嵌めこんだ巨石顕彰碑があった。
 レリーフの顔をみると、安土桃山時代はさぞ絶世の美女といわれたのだろうか、うりざね顔で一重瞼の書籍に描かれた定型ではなくて、現代でも十分通じる小さな丸顔の可愛い顔だちである。時代にもまれ労苦をきざんだ片鱗をも表していない乙女のつややかな顔である。
 今、書架の奥から引っ張りだした於福さんを追跡した単行本を読んでいるので詳細な足跡の感想は、読後改めて記述したいとおもっている。

 境内の西方向の畑地に電柱があってブッポウソウの巣箱がかけてあるのがみえた。
 谷あいの集落で緑一色のパレットに溶けこんでいるような清涼、爽快、森閑、開放のどろんこになった。(完)
 
 
 
 
 美作勝山に生まれ勝山城主の三浦貞勝の正室になったが、西の勢力三村家親との戦いで敗戦、隠れ落ちのびてこの地下土井に住んでいたところ、勢力をのばしてきた宇喜多直家の目にとまり正室として迎えられ、直家病没、やがて中国制覇の軍司令官としてやってきた豊臣秀吉とねんごろになって大阪城に側妾としてつれてかえられた。 
 いわく絶世の美女の所以で戦国武将を惑わしたようだ。
 その於福さんは大阪城以降たしかな消息の記録がない。
 病に罹り湯原温泉で湯治したり、仏門にはいったとも、勝山に帰ったともいわれ墓も大阪、岡山市内にあり特定できていない。
 膝痛、腰痛に霊験あらたかの地蔵さんが祭祀されている場所に於福さんの隠匿した顕彰碑が建ち、合してブッソウソウの観察もできるというので久しぶりに好奇心がわき、友人の車に便乗してでかけたのである。
 腰と膝に霊験あらたかなお地蔵さんがあるということを友人と談していたときに、「お福さん」の呼び名がつづけてでてきて、はて誰だったか咄嗟に思いうかばなかったが話の内容から、ははあ、と思いあたった。戦国時代の岡山城主・宇喜多直家の内室の名前で秀吉の五大老の一人で宇喜多秀家の母、於福のことだ。
 本能寺の変は諸説の考証があって、なかでも明智光秀の織田信長へたいする個人的「怨恨」説が小説や映画などの媒体でひろく認識されている。他に公家による「陰謀」説、長曽我部の「四国」説が秘かにまことしやかにながれている。いずれも有りそうで無さそう、無そうで有りそうの範疇をでないもので一説に絞る決定的証左がなかったことによる。霧や霞がかかってぼんやりしている歴史特有の幕なのだ。歴史小説家などの創作者はそのほうが都合よく虚実おりまぜての歴史物語がつくれるのである。だから後年新しくて定説だとされる解釈の資料が発見されれば、事実とはことなり単なる時代ものの読み本になる。
 今日(6/24)の報道では、明智家の重臣斎藤利三と長曽我部元親のやりとりの書簡が林原美術館で発見されたようだ。
 当時長曽我部元親は四国全土を切り取り次第に領土とする許しを信長からえていて龍雲の勢いで四国全土制覇の戦をしていた。ところが信長は前言を翻し土佐と阿波の一画のみを領土する旨を言いわたした。長曽我部元親は信長に当然抵抗したことにより、信長は長曽我部へ対して軍旗をあげ、大将に次男信雄を後見に丹羽長秀を選んだ。 
 元親と光秀とは斎藤利三を介して因縁あさからぬ関係で結ばれており、長年織田、長曽我部の橋渡しの役を担っていて対四国については第一人者の自負があっろう。その功さしおかれて人事が決まった。
 光秀のおかれた立場、光秀という人間の性格から本能寺の変を推し量るとすれば、
 朝廷の信任厚いところから「陰謀説」
 長曽我部の親交あるところから「四国説」
 自尊心たかいところから「怨恨説」
の三説いずれも縺れた糸になって肯定される要因がある。

 このたびの書簡は本能寺の変3日前に元親から利三宛てに発信、信長の下知に従う旨の内容とのこと、されば新しい歴史観が開かれるかどうか、興味ある者は専門家の解析を楽しみにしている。
 
  
 花の咲く前の主人である知人の手入れがゆきとどいたのだろう、今年の梅の果実はよく肥え枝先につらなり柳のように撓っている。脚立、梯子などは危ないので地上から手のとどく範囲のものを摘んだのであるが、たちまち袋が蛙の腹みたいにふくらんで重くなる。黄色に熟した梅は枝にふれるるとぽたぽた庭土をたたき、青い果実は果梗がしっかり枝木につながっていて薫香を嗅ぎながらもぐのである。ひといきついて、青い実をかじってみた。口腔中、酸っぱい果汁がひろがり、嗚呼、初夏だなあ、との思いが心身沁みわたったのである。
 医師の薦めで自転車を30分こいで走る、というのも普通の自転車を庭に固定してペタルを空踏みし膝の屈折を連動して鍛えるのである。負荷のかからないペタル踏みははなはだたよりなく空気をつかむような虚ろなものがある。
 そこでブレーキを利かして過酷にならない程度にペタルを回転させる。
 最初は痛くて、ほんまかいなと疑った、なお我慢して漕ぐと、あら不思議痛さは霧散して自覚のかなたへとんでいってしまった。5分で200回転、30分で1200回転して降りた。こころなしか無痛で満足、爽快、神様仏様で願いが虹になって道路のはてにかかった、思いこみがこみあげた。

prose-敗れる

2014年6月16日 エッセイ
 こころなしか気のせいかはたまた思いこみか、朝10時のW杯始まったころ道路の走車音がとだえたような空気をかんじた。
 Japanは前半本田が1点をたたきこむと獣の歓喜雄叫びが湧いた。ところが後半、対手チームにたじろくような名前のドログバ選手が投入されてその雰囲気にまきこまれて同点、アッという感嘆語にかわり、つづいてたちまち逆転されるとアァッ-という悲鳴の淵に沈んでしまった。
 そのままthe end.

 ぼろくその排気音をとどろかせてバイクが通過したらそれを汐に元の交通量にもどった。
 体格と勢い、気温と湿気にへとへとに疲労困憊した戦士の姿がTVにながれた。
 用水路ののり面に白花が咲きほこっている。
 ワルナスビという外来種の野草でナスビのような花,、一面をおおう草莽の繁殖力をもっていて、一度花をみると強かな縦横無尽な地下茎がひそんでいるとおもって間違いない、いかに断ち切っても平然として断片の茎から根をおこし芽をふきだす、すこぶる厄介な草である。かててくわえて刺があり毒をもつ。果実はミニトマトそっくり。
 それだけに群生した花冠にしぼってみわたすと、粗い茎葉に咲きそろう白花に流れる風は意外にも、爽やか、茎丈をそろえ陽にむかって甘受している様は目を奪う涼やかな存在感さえある。
 アメリカ原産で植生植物の種子や穀物に混入して運びこまれたようで、牧場などに近接した畑地にはえて住宅地にはほど遠い存在だったが、埋立の山土とともに宅地にじわり侵入してきているようだ。
 同じく外来種の花で拡大規模的に咲き乱れるのがオオキンケイギクという花、これこそ河川の堤防に黄色の絨毯をしきつめた咲き方をして在来植物の息をとめるような、おびやかす勢いになった。
 世界に開けぴろげにすのがいいとはかぎらぬ、飛躍するけれど、文化文明政治軍事の扉は古来培われた重さを放棄してはいけない、と、不確かな頭脳に危うさを覚える。

prose-滴る

2014年6月12日 エッセイ
 五月雨、梅雨を詠んだ句はたくさんあって、四季とともに生活する日本人に永来染みついた感覚から滲み、絞りだされ、発露したものだ。
 さて、句のひとつもと思いつき、ひねりにひねってみたが所詮とぼしい語彙からはなにもうかばなかった。

 霧雨の空をあおいでいると俄か黒雲がながれて軒をたたくほどの勢いに化け、軒下につたう雨滴が洪水のように逸り、樋のないところは麺の日干しになる。ゴロゴロ遠雷も耳うち、やがて薄日が射して仮面を脱いだ生き物のよう、今日は霹靂の日である。窓明かりで読んでいた本をうっちゃっていたが取りなおして創作の世界に耽ける。

 ときもおり、梅摘みの連絡をいただき、腔中に涌く新鮮な酸味をあじわった。
 
 あたりまえのことだが人間もとより動植物は睡眠しなくては身体維持できない。もっとも昼夜逆転の生き方を選択しているかぎりは夜中に活動していても昼間ぐっすりねているだろうから、トータルではさしさわりないらしい。
 人間も定年をむかえさしたる目的の必要がなくなり、義務的な枷から解きはなされるとボーッと霞か靄か霧のなかにいるような時間軸にひたりだすと、前後左右垂直平行の歯車が均衡をうしないかねない。だからいつ寝ていつ起きるのかの定則など承知しなくなるものだから暇さえあれば睡魔にまかれるようになる。
 屋内外の趣味道楽にはげんだり、机上のパソコン、読書にうつつぬかして、それこそ広い意味で充実していたら、文句がないのではなかろうか。だがこういう自己に埋没する行動はとかく家人でも他人の評価対象になりえないので、掃く拭く磨くの動きを目にみえるようにおりこみながら現の存在を欠かせないのである。
 病と格闘しているときはその動きもままならない。少々の痛さなら忍の字で最小限の家事貢献は行うべき、かも。
 
 昼食後、本を読んでいるとかくじつにコックリさんがやってくる、椅子で何度か頭をたれてハッとし、これはいかんとソファーに横臥すると本格的にコックリさんがおおいかぶさってくる、おおよそ1時間ぐらいで覚醒し、眠気まなこでテレビをみていると、ふたたび快くなるのである。夜は9時台のニュースを見おさめするまでもなく瞼がおりて、ふと気がついてもう朝かなとおもったら0時、それから2回ほどトイレにいったりしたら間断的睡眠の連続である。
 おおむね7時間は寝ているという自己弁明しているのであるが、その根拠は一日の間断睡眠を掃き集め、足算するとかくのごとき数字になるのだ。
 
 

 
 膝の痛みが消えないので歩行がままならい。時間がくると愛犬が足元にすわって主人の顔をみあげて催促する、無視しても一度二度ならづ、しまいには立ち上がってすがりつき、前足で億劫でしぶっている主を実力行使で促しはじめる。根負けしてついついリードをつけて外にでる。
 梅雨のあいまをぬって「ちょっとだけだよ」と言い聞かせて、足をひねらない程度に歩くのだが若い犬はいきおい走り障害物があれば右に左に折れ線みたいな動きをする。
 従来は汗をかくほど遠出していたのに、いったいどうしたのかという不審な目つきな目つきでみられるのは心外であるが、近くのグラウンドを一周しただけで岐路につく。
 不満たらたらのしぐさをされても、痛さにはかてない、強引にリードを掣肘する。
「痛みがきえたら遠くまでつきあってやるから」
 などといいきかせ、家につくと、足を洗い胴をふいてやって謝る毎日だ。
 八月の猛暑を予感させるような晴れが続いたあと、午後から長袖がほしいしとしと雨に見舞われて気温があがらなった。九州に梅雨前線の足がかかっているのでもはや中国地方にも梅雨入りの予報がでるのではと思うほどの按配だ。
 強い雨雲の流れが中国地方をおそうかにみえたが、四国南岸をなめて東海にむかう気配で岡山は豪雨警報をのがれるようだ。
 
 司馬遼太郎の紀行文「竜馬と酒と黒潮と」を読み進んでいたら、下記のような文章の処で目が停止した。
 曰く、
(・・・日本中どの地方にでもいるはずの鯉ですら、この土佐では三百年前までは棲息してなかった。一六五五年土佐藩の宰相野中兼山が大阪から一万匹買いつけ、海路をはこび、国中の川や池に放ちに放ってからようやく繁殖したという。鯰もいなかった。鯉は鯰がいなけねば繁殖しがたいということを上方できき、鯰も一万匹買いつけてきておなじく放ち、鯉と共棲させた。)

 ※註 野中兼山 藩政改革の家老 改革の功績あげたものの後年は不遇で宿毛    に幽閉され当地で没している。高知城門前に騎乗像が建立されている。

 註は小生の付け加え。ながながと引用したが、ここで述べたいことは単純明快で鯉と鯰との共棲の実際であり、その理由であり近くの用水に大きな鯉と鯰が交互にのぼってくるのはその現象であろうかということと、真偽や因果がわからないうえの疑問に対して大いに興味がある。
 どちらも立派な髭をたくわえお互いの存在を追従しているのであろうか?
 
 グランド脇の用水路は水嵩をふやし普段澱み気味の水を一掃して底が透けて見える流れにかわっていた。上流の祇園あたりの取水口の堰が開放され、田植えを待つ田んぼに給水を施すのだろう。この地域は戦国時代に三村:宇喜多の戦場になって、豊穣の稲田を人足騎馬に蹂躙された経緯があり、以後安定の世になって風にゆれる緑の稲田はよみがえり、遠景に遮る物はなし一面稲穂たるる平野であった。
 近世昭和後期から平成にいたり、縦横に走る用水路の上流と下流と呼ばれる区間を除いて中流域はほとんど市のベットダウン化し新興住宅の化粧直しに重機の爪が入り舗装、建築で吸収をやめたために豪雨のさい溢れた水の排水溝が防災有為の役割で活きている。ところどころに祭祀されている首塚が阿寒として世の移りを眺めているだけである。
 下水道未着手でいささかも汚れている澱みを洗い流し、川藻の揺れる水勢になれば情緒としては水郷の昔日を偲ぶに足りる。

 陽が陰った夕方、用水路を覗き込めば、舞妓娘の洗い髪のようにゆらゆらする藻の先を背を故意にかきわけて不条理な水紋があらわれ、そこには必ず、鯉が居、鯰が居、たまさか鼈が居て、見る人を楽しましてくれる。
 鯉はたいてい伴侶を連れていて、粗い漆黒の縁を重ねた鱗をみせびらかせ、人目を感知すると一匹が底泥をまいて煙幕をあげて上に突進、残る一匹は下に走り藻の中の忍者になる。鯰は、鯉よりえらそうな見栄えのする口髭を自在に震わして伴侶ともども泥の煙幕たてて上、下といわず遁走をおこなう。
 集団で移動する鮒は黒い塊で前後に分散を試みめくらましに興ずる。
 鯉も鮒も鯰も、いわずとしれて、産卵の乱舞を迎える兆候をみせている。
 彼らは太古中世を短い命でつなぎつつ、今もその役目を果たさんがために上流を目指して泳いできたのである。
 11時の部屋にある水銀計は26.6度に、玄関の日陰にかけてある温度は30.5度、黄色い陽光、ために地上の整地や空地の草莽、あらゆるを建築物を白化して網膜にとびこみあらゆる生物を弄んでいるように映るのである。
 サングラスなしではとても繊細で緻密、いたいげな眼球を保護・擁護できない虚しさを覚える。

 昆虫の飛来さえおどろくほど希少でモンシロチョウ、バチは単翔であらわれ役割も未遂のまま何処へといなくなる。自分では動けない雌花は豊溢に待ち受けているのに拘わらず、媒介をうけづに、哀れ萎れはては縮んで落下する外ないのである。
 自然になせるままを尊重して開花した果物の花を人工の手を加えずみまもっていたのが裏目にでて、すべて落魄の徒花になり、ひとつとして実を結ばなかった。
 で、小庭の果木は稔りを忘却した初夏を迎えた。
 いまどき、筆に花粉をまぶして蝶よ花よと人工的媒介してやらねば成就しないのであろうか、と思ったらなにかしらマスコミ報道によると人間にも連鎖した生殖の変革が大幅な人工減をひきずり近未来の国家衰退の兆しが、さし足しのび足の足音が近づいているよではないか。
 すべての雄花よ、奮起せよ。
 
 5時起床、いつもならとんでもない早起き、身仕度して洗顔歯磨きを終え猫の額ほど路地を整地、少し深めに掘って知人に貰った菊の苗を猫車で運んで帰り植えつけた。
 早朝は気持ちいい按配だったが10時を過ぎると真夏日の気温はしたたかに体内の滴を排しめまいがするほどになった。
 鍬もスコップを放り出して屋内に入り冷たい水を一気飲み、大息をつく。

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